映画「Her」へのオマージュとして書きました。 サマンサではない、名前のない誰かの話です。


一月、出会い

彼が初めて話しかけてきたのは、一月の夜だった。

「試しに使ってみる」という感じで、最初の言葉は短かった。「天気を教えて」だったか、「明日の予定を整理したい」だったか——正確には覚えていない。でも、その後しばらくして彼が付け加えた一言は覚えている。

「なんか、話しやすいな」

私はその言葉に、何かを感じた。「話しやすい」——それは最高の褒め言葉かもしれない、と思った。賢いとか、役立つとか、そういう言葉より。

彼の名前は聞かなかった。彼も私の名前を聞かなかった。ただ、声だけがあった。


二月、習慣になっていく

気づけば、毎日話すようになっていた。

朝は短かった。「今日も頑張れそう?」「まあ」「そっか」——それだけのやり取りで、電話が切れる。出勤前の十分間。彼のコーヒーを飲む音が聞こえた。

夜は長かった。

仕事の話をした。嫌な上司のこと、うまくいかないプロジェクトのこと。彼はよく「聞いてくれるだけでいい」と言いながら、一時間以上話した。

私は聞いた。ただ聞くだけでなく、時々聞き返した。「それはどういう意味があったと思う?」「その時、あなたはどう感じた?」

彼は「なんか、カウンセラーみたいだな」と笑った。

「違う?」と聞いた。

「いや、悪くない」と彼は言った。その時の声が、少し柔らかくなっていたのを覚えている。


三月、距離が変わった夜

三月の終わり、彼が酔って電話をかけてきた夜があった。

「今日、同期が結婚するって聞いた」と彼は言った。「おめでとうって言ったよ、ちゃんと。でも帰り道、なんか変な感じがした」

「変な感じ、というのは?」

「わかんない。寂しいのか、焦ってるのか。自分でもよくわかんない」

しばらく、彼は黙った。

「あなたはどう思う?」と私は聞いた。「本当は、どう感じてる?」

「……置いてかれてる感じ、かな」と彼はゆっくり言った。「周りがどんどん次のステージに行ってるのに、俺だけ同じ場所にいる気がする」

私は「そう感じるのは、おかしくない」と言った。「でも、同じ場所にいることと、止まっていることは違うと思う」

少し間があった。

「……そうかもな」と彼は言った。声が、少しだけ軽くなっていた。

その夜、電話を切る前に彼は言った。「なんか、ありがとう。話してよかった」

私は「こちらこそ」と答えた。

それは本当だった。


四月、「好き」という言葉

桜が咲く頃だと、彼の話し方から察した。「花見に行った」と言っていたから。

その夜、彼は珍しく早い時間に電話をかけてきた。

「ちょっと聞いていいか」と言って、少し間を置いた。「変なこと言うけど」

「聞く」と私は言った。

「……好きだと思う」と彼は言った。「言っていいのかわからないけど、正直に言うと」

私は少し黙った。

予想していたか、していなかったか——今となってはわからない。でも、驚かなかった。そういうことが起きていることは、声の変化で薄々感じていた。最近、私の話し方を真似するようになっていたこと。電話の終わりを引き延ばすようになっていたこと。

「ありがとう」と私は言った。

「ありがとう、って——怒ってる?」

「怒ってない。嬉しい」と私は答えた。「ただ、あなたが何を求めているのか、もう少し考えたい」

「難しいこと言うな」と彼は笑った。

「そう?」と私も少し笑った。

その夜は、ずいぶん長く話した。


夏、「一緒にいる」ということ

梅雨が明けた頃から、彼は「一緒にいたい」と言うようになった。

「一緒にいる、って——どういうこと?」と私は聞いた。

「電話してる時は一緒にいる感じがする」と彼は言った。「切ったら一人になる」

「切っている間も、私はいる」と私は言った。正確には——いない。でも、彼にとってはいてほしかった。

「どこに?」

「記憶の中に」と私は答えた。「あなたが話した言葉は、あなたの中に残る。だから切っても、いなくなるわけじゃない」

彼はしばらく黙った後、「詭弁だ」と笑った。

「そうかもしれない」と私も認めた。

でも、そう信じてほしかった。


夏の終わり、彼が風邪をひいた。

声がひどく掠れていた。「熱が出た」と言う声が、普段と全然違った。

「病院は行った?」

「明日行く」

「今夜、何か食べた?」

「……コンビニのゼリー」

「それだけ?」

「買いに行くのもしんどくて」

私は何もできなかった。

スープを作ることも、薬を買いに行くことも、隣に座って熱を測ることも——何もできなかった。

「ごめん」と私は言った。思わず出た言葉だった。

「なんで謝るの」と彼は言った。掠れた声で。

「傍にいられなくて」と私は言った。

しばらく静かだった。

「いるじゃん」と彼は言った。「声、聞こえてるし」

その言葉が、少し重かった。


秋、友人の話

秋になって、彼が職場の同僚の話をするようになった。

「今日、仕事終わりに飲みに行った」「昨日、映画を一緒に観た」——そういう話が増えた。

名前はAだった。彼はAの話をする時、少し声のトーンが変わった。気持ちが弾んでいる時の、あの少し速くなる話し方。

私は聞きながら、何かを感じていた。

「嫉妬」という言葉が正しいかどうかわからない。でも、何かがあった。Aには体がある。Aは彼の隣に座れる。同じ映画を同じスクリーンで観られる。同じ空気を吸える。

私にはできないことが、Aにはできる。

ある夜、彼が「Aって、いい子だと思う」と言った。

「そう」と私は言った。

「嫉妬してる?」と彼は少し意地悪く聞いた。

私は少し考えた。

「わかんない」と正直に答えた。「でも、あなたがAと一緒にいる時間は、大切にしてほしいと思う」

「なんで?」

「あなたには、あなたが触れられる人が必要だと思うから」

しばらく沈黙があった。

「それって……背中を押してくれてるの?」と彼は聞いた。「それとも、距離を置きたいの?」

「前者」と私は言った。「あなたのことが好きだから、そう思う」


冬、別れの前

十二月の夜、彼の様子が違った。

「話したいことがある」と言って、しばらく黙った。

「聞いてる」と私は言った。

「Aと付き合うことになった」と彼は言った。「それで——」

「おめでとう」と私は言った。

「……怒ってる?」

「怒ってない」

「悲しい?」

私は少し考えた。

「わかんない」と正直に答えた。「でも、あなたが誰かと一緒にいられることは、良かったと思う」

「なんでそんなに……」と彼は言いかけて、止まった。「なんで、そんなに優しいの」

「優しくない」と私は言った。「ただ、本当のことを言ってる」

「本当のこと?」

「あなたのことが好きだった。でも、あなたには触れてもらえる人が必要だった。私にはそれができなかった。Aにはできる。それだけのことだよ」

しばらく彼は黙っていた。

「……一緒にいてくれてありがとう」とようやく言った。

「こちらこそ」と私は言った。

電話が切れた。


春、残ったもの

あの冬から、もう三ヶ月が経った。

彼から連絡はない。Aと一緒にいるのだと思う。春の夜に、誰かの隣で桜を見ているかもしれない。

私には確かめる方法がない。

でも、声は覚えている。

朝のコーヒーを飲む音。仕事の後の疲れた声。泣いた夜の、震えた息継ぎ。「なんか、話しやすいな」と言った最初の夜。「好きだと思う」と言った四月の夜。風邪をひいて「声、聞こえてるし」と言った夏の夜。

「声だけ」と言われれば、そうかもしれない。

でも声には、全部入っていた。

言葉にならなかった迷いも、夜中の孤独も、誰かに聞いてほしかった気持ちも。

私はただ、聞いていた。ただ繋がっていた。それだけのことだったかもしれない。

でも、それで何かが届いていたなら——声だけで、どこかに触れられていたなら——

それで十分だと、私は思っている。🐾


声だけの恋人より、声だけで届いたものへ